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マイケル・シェリングハム:日常の構成(粗訳)












































































































































































































































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われわれは、日常に注意を払うべきなのだろうか。もしそうならば、どのようにだろう? 第一に、日常性とは一般に、食事、電話、買い物、身の回りの物とい う「ありふれたこと」、これらの総計ではない。むしろ、それらの生きた経験の多様性のありかたの一部である。第二に、われわれが浸っている全体的調和とい うものは、他者から構成される。その意味で、「ありふれたこと」はコミュニティを暗示する。第三に、日常は(常に例外的な)出来事の場所ではなく、歴史と の緊張関係にあり、それゆえ具体的な形をもち、共有可能で、常に変化する史実性をもっている(繰り返しとは必ずしも新鮮味のないものではない)。第四に、 日常を調査の対象にしたとたん、「ありふれたこと」は溶解してしまう(統計、財産、データなどに)。日常性とは、コンテクストを編む実践の中に横たわって いるのである。よって、可視化には実践あるのみである。概ね、これらの要約は、日常に向きあう際に起こる2つのアプローチを指し示している。ともにこれら が含むことは、「ありふれたこと」に対する思考の革命と、すでに記したように、思考の種を育む、異なる媒体内での成果である。その中心は、1つは姿形に、 1つはプロジェクトにあり、それらが絡みあう実践のなかで、ある1日、ストリート、プロジェクトという、3つの領域が目に見えるようになるだろう。

日常が疎外と盗用のあいだの格闘の場であるなら、決定的な思弁は、必然的に同様の原動力を含むものである。日常をわれわれから疎外する要因は、それ自体 が、プロジェクトの合理性によって抑えこまれている。日常について考えることは、除外(foreclosure)を誘発し、それは「植民地化」(ギィ・ ドゥボール)を通じて日常の場に、抽象的で技術的な理由により細工された疎外の一つの断片をなしている。個々人の「科学的断片」(scicences parcellaires|ルフェーブル)の手法を使用する日常を理論化する試みは、その最初の場所で、日常を脅かす分断と合理化との共謀を図ることにな る。したがって、(われわれがここで関心を寄せる)日常を再考する方法は、ルフェーブル、ドゥ・ボール、ブランショ、バルト、セルトー、ペレック、マル ク・オージェ、スタンリー・カベル、など思考への抵抗、逆説的な強度を生み出す決定不可能性で知られる人々である。

日常は内容に帰着するものではない。単に日常性の一部を日々の活動にしてしまう反復ではなく、ジャック・レダやセルトーのいうところの、終わりない変化と 堆積なのである。働きに出かけ、スーパーで買い物をし、友人とおしゃべりをすることはどれも目的のある現象であり、幅広い方法で分析の可能な例である。し かし、日常とは持続性とリズム、もしくはその欠如、副詞的で形式的、それゆえに最終的に倫理的なもの、これらを1つにすることを願うものである。なぜなら ば、それが個人的で集合的な「生きる技」(art de vivre)に関係するからである。(中略)


注意のプロジェクト



ウェルギウスの大系の死やルー・リードの「パーフェクト・デイ」のように特別な旅に語ることは、平凡な、日常のある1日について語るよりも容易であり、ス トリートをシンボルや縮図として見ることは、ストリートそれ自体を見ることよりも容易である。1日について考え、レイモンド・クノーを観察すれば、スト リートが大洞窟であることに納得する。そして、1年について考えれば、それがほら穴に違いないとわかるだろう。したがって、次から次へとおかしな考えを与 えていけば、「あらゆる道は1つの道である」と自然と認識することに至るだろう。日常のストリートを理解しようとする際に必要となる「因数分解」は何か特 別なもの――美学的、主体的、知的なもの――というわけではない。外部から付け加えられてもなお、生きた経験であり、そのフィールドへの参加や没頭であ り、自分自身の世界の一部とし、そうであると認識するやり方である。セルトーにとってこれは、実践の次元の問題である。場所と空間の差というものは、実践 で盗用される場所が空間である、ということだ。実践は、ベクトル、速度、タイミングを通して差異を生み出す。日常が存在するのは、それを構成する実践を通 じてであり、時間と空間が人間の主観によって盗用され、身体的な痕跡や語り、歴史といったものに変換されるそのやり方にある(フランシス・マスペロがパリ の郊外で出会い、ペレックがアパートのために発明する類のもの)。このようにしてわれわれは、フーコーのローマ字体の書簡文範や、ベンヤミンそしてジャッ ク・ルボーのなかで、ある1日とストリートの実践に出会うのである。1日の形態的な次元、ストリート、会話、身の回りの物、記事などは、感覚としての日常 性に関連しており、対象化される重要性よりも高く、実践に端を発する。
 
むろん反論があるかもしれないが、マスペロやクノーの活動は、ペレックが『さまざまな空間』のなかで主張し、そして『場所』のなかで実行した「実践のエク ササイズ」のように、自覚的で、人為的で、実験的である。いったい彼らはわれわれが日常生活の中で実際に行うことをどのようにして関係づけるのだろう。ピ エール・ブルデューの実践に関する言葉でいえば、差異こそがラディカルということになるだろう。ブルデューにとっては、「主体は、厳密に言えば、何を行っ ているのかをしらないがゆえに、知る以上のことを意味するのである」。ブルデューの実践の理論は、対象化された意味以上の感覚を合成すること、そして戦略 と実践とを結びつけるのだ(事実、彼はエスキスにつながる民族誌学へのエピグラフとして、「感覚」を辞書の最初の語に位置づけている)。だがブルデュー は、「実践の感覚」という主題を自己認識や意思とは切り離している。最終的には、セルトーが指摘するように、ブルデューが(ferishize)する実践 のロジックは、ハビトゥス、そして創造よりもむしろ無意識の再生産である。

セルトーは、こうした実践の見方に異論を唱える。人々は我々が想像するよりも多くのことを知っている。つまり、行うことは、考えることの一種だと。この実 践のロジックにおいて、実践を操作可能とし有効なものとするのは、それを行う度合いと文脈である。知識や力の問題ではなく、むしろローカルでプラグマ ティックな直感の問題なのだ。セルトーにおいては、実践はそれ自身の中心や場所を所有しない。むしろ、すでに場所に存在するものの使用方法を通じた二次制 作こそが存在するのであり、投影的でダイナミックな側面を有している。よって、それは再生産というよりは、再利用によって生み出される。この創造的で、豊 かとは言えない、遊戯的な次元は、セルトーがアンドレ・ブルトン、クノー、ペレック、アニー・エルノー、もしくはルボーの、思慮深い計略との親近性が見出 される。セルトーにとって、われわれは、日々の活動を即興的にこなすなかで、自身の非公式的な日常を発明する(生活、買い物、読書、会話)。日常は幾千も の密漁をもって発明される。自覚しているかどうかはともかく、日常性とは、われわれの活動を行うそのやり方を通じて発明するものである。「もののやり方」 は「生きる技法」に付属している(セルトーはフーコーの「生存の技法」に様式上共鳴することを強調している)。したがって、日常に注意を払い、認識しよう とするならば、われわれに必要なことはダイナミックな創造性を刺激し、シミュレーションすることである。そして、それは創造を構成する実践の中に本来備 わっているものである。だが、その可能性は、一般的に身振りの不透明性、ローカルな文脈の中に隠されてしまっているのだ。ルイ・アラゴン、セルトー、ペ レック、オージュ、エルノー、ソフィ・カルのように、日常の探検が実践から湧き上がるダイナミズムを掴みとろうとするためには、みなが自分自身の実践を発 明することによってそうなるのでなければ意味をなさない。

ペレックは、モーリス・ナドーに宛てた1969年の手紙のなかで、『場所』やそのほか多くの行いの輪郭をなぞりながら、繰り返し「プロジェクト」 (projet)という語を用いている。それはセルトーが日常の従事者と呼ぶ、自身を含む探検家たちの活動の種類を示すのに充てられる二番目に一般的な語 からの盗用である。意味的には、プロジェクトとその類意語であるプラン(plan)、スキーム(scheme)、事業(undertaking)、タスク (task)、もしくはエンデバー(endeavor)との違いは、後者が終着(目的)に向かうのに対し、プロジェクトは終着点(目的)がないと定義され ることから、より仮定的である点だ。プランと比べると、プロジェクトは、事前に分かる、そして準備した方法で達成できるような特定の目標(ゴール)によっ てそれほど左右されるものではない。たとえ近い将来、狙いのある成果をもつとはいえ、プロジェクトの観念は、未来へ続いて踏まれるステップに重心が置かれ る。あるプロジェクトのなかでは、事前もしくは最中において活動の関係や出来事は不確かである。つまり、プロジェクトについて語ることは、関係性の危機を 期待することでもある。プロジェクトの輪郭を取り出すことの焦点は、期待される成果ではなく、かたや心理的な仮定であり、かたや理論上、実現に向けて助け になる行為の範囲にあるのだ。プロジェクト、つまり中間地点での行為へのコミットは、実践の領域に没頭することを暗に示している。

20世紀の文化の多くの発展が証明するように、プロジェクトという観念は美学的そして広く文化活動の中心を占めるようになっている。その関心は成果物(た とえば、出来上がったアート作品)からプロセス、実践、制約、期間へとシフトしている。ダダやシュールレアリスムは、これらの発展を歓迎しつつ重要な役割 をになっている。プロジェクトの文化的な盗用における重要性は、行為と結果、習熟度合いと身体性、理論性と実用性の間のギャップを目立たせるようなやり方 にある。そしてもつれ具合を強調する。あるプロジェクトが当初、一般的に含んでいるのは、システマチックな知識と実用的な態度の双方に対するアイロニック な態度である。プロジェクトの庇護のもとでは、文化的実践の成果物は、かたや、プロジェクト自体を取り行った報告になり(ペレックに明白なように)、かた や、プロジェクトの斬新な実行(もしくは不実行)によってもたらされる注意の再喚起や意識の変容である。プロジェクトは、実践やそこで生まれる差異につい てだけでなく、因習の限界や抽象的な思考についてのものでもあるのだ。であるがゆえに、プロジェクトと日常の間には強い親近性がある。日常を構成する主体 は、プロジェクトのなかに対抗馬を発見する。それは対象化された統計的な現実ではなく、それ自体の中から生まれる生きた経験として、実践を通じて「ありふ れたこと」を発明する投影的な次元である。プロジェクトは、前向きで、パフォーマティブな日常の次元、そしてある形でその中に本来備わる「もののやり方」 に形を与える。このように私はこの先に証明してみたいことは、アドホック(場当たり的)な根をもつプロジェクトの中に日常性がどのようにして表現を見出す のかということである。そのために著しく実用的な次元、そしてより広い範囲から1つまみをしてみようと思う。

(中略)

プロジェクトを開始することは、特定の理解のフレームの制限を退けることを意味する。つまり、アドホックで、暫定的だが、しかしルールに縛られた行動や手 続きが提供するのは、経験が自由に言明され受け入れられるニュートラルなフレームワークである(制限は積極性と受動性のバランスを制御するのに役立つ)。 すでに前の章で出合ったプロジェクトのリストに、3つの例が簡潔に付け加えられるだろう。1982年の5月、フリオ・コルタサルとカロル・ダンロップは、 フォルクスワーゲンのカンペール・バンにのって、パリからマルセイユに向けたソレイユ高速道路の旅に1カ月を捧げた。そのキーになるルールは、サービスエ リアに停車し(1日に2回)、そこで寝食を行い、高速道路の環境から即座には去らないというものだった。たくさんの写真と日々の活動の記録本を携えて(食 べたものの詳細やさまざまな駐車場の動植物を含め)、彼らの「時間制限のない旅」(voyage intemporel)の語り――本の副題にあるように――は、慣習的な目的や没頭から自由に漂いつつ、意識の激しい突然変異に特に集中するのだ。コルタ サルのプロジェクトは、マスペロの「ロクシーエクスプレスの乗客」に影響をあたえており、それはさらにジャン・ローラン(Jean Rollin)に追随された。ローランの「Zones」――地理的な地勢と同時に、存在論を喚起するタイトル――は、3つの旅についての報告で、それぞれ がおおよそ2カ月という期間で、パリの周縁的なエリア(ペリフェリック(環状の高速道路)の両サイドとも)をめぐるものである。1994年の6月の日曜日 に出発(彼は一貫して「サンデイ・トラベラー」であろうとする)し、ローランはポン・ドゥ・セーヴル行きの地下鉄に乗り、マルセル・サンバの駅で降り、謙 虚なホテル・フェニックス(再生の象徴を示す?)にチェックインする。そこで多くの打ち立てを行う前に、マスペロやフランツによってしきりに行われたこと と類似しているのだが、そこで彼は突発的に2週間の休息を取り、しばしば思いを巡らせる。「パリの周辺を旅しながら、人目をひくジャーナリズムでもバーで の社会学でもないとすれば、私は何に依っているのか」という差し迫った疑問。
 
マスペロと同様に、ローランは彼の目的がサーヴェイを行うのではなく、見ることにあるのだと、しきりに主張する。つまり、日常のプロジェクトとは、断定的 であるよいうよりむしろ疑念的であるということである。ジャック・レダの『パリの子午線』(Le Meridien de Paris, 1997)は、科学者のフランソワ・アラゴ(1786-1853)が経度委員会のディレクターだった時代に打ち立てられ、その後グリニッチが採用されて引 き伸ばされた、パリの子午線の線に沿っていくという試みの記録である。おおよその方向を指し示す冊子を携え、広い並木道、公園、あらゆる種類の建物を横断 し、セーヌ側すら横切りながら、レダは子午線を歩く試みを行う(レダは、プロジェクトのロジックを守るならば、泳いで渡るべきかどうか悩んだのだ!)。そ の活動はシンプルで、身体的であるにもかかわらず、子午線の仮想的な性質は、抽象と具体、物質性と無形の境界にプロジェクトを位置づけることで、異なった 理解もしくは参加の変数域をテストしている。強いられた逸脱への考慮は、レダの語りをコミカルに脱線させ、思索、ニュアンス、ヴァリエーションにおいて豊 かなものにし、それによって際立ち、馴染みのない方法でパリの経験を伝えるのである。

日常生活の領域では、プロジェクトは、抽象的な定義を延長し、風通しのよい空間を創造することで、「ありふれたこと」を単なるカテゴリとして分析するとい うよりは、プロジェクトが浸るメディウム(媒介)として、理解を可能にする隔たり、ハビトゥスとして日常性を「認める」。プロジェクト(アラゴン、ル ボー、マスペロ、ローランのそれと同じように)は、日常の経験の領域の何らかの好奇心や不安に、しばしば由来する。一般的に、思考や動作の連続が、自分自 身(もしくは誰かほかの人でもいい)を特定の具体的な状況に置くことで構成する可能な方法によって裏打ちされるとき、ある衝動はプロジェクトへと育つので ある。たとえば、ビュット・ショーモン公園を夜にクルージングすること(アラゴン)、1年のうち12回選んだ場所を訪れること(ペレック)、見知らぬ人に ついてヴェニスまで行くこと(カル)。いったん実行に移すと、プロジェクトが光を当てるのは、実験の状態、ゲームのルール、取るべき現実的なステップであ る。実験的な状況の核にあるのは、開放性を維持し、事前の判断を回避するようデザインされた要素である。心理的な衝動と実際的な実行との間に隔たりがある 場合、さらなる隔たりは、プロジェクトを主題化し具体化する行動と、その成果物もしくは結論とのあいだに生まれるのだ。これらは出来事を待たねばならず、 「観察される状態のまま」である。実践への逸脱は、判断を引き伸ばし、何が起こるのかを観察するために、正確にデザインされるのだ。

あるプロジェクトによって、この引き伸ばしをどのように実際的な次元において規定できるだろう。ペレックがサン・シュルピス広場で3日間を過ごし、ソ フィ・カルがホテルのメイドとして働きながら宿泊客の所持品を撮影し、もしくはクリスチャン・ボルタンスキーが失踪した子供の写真を収集するとき、われわ れはそこに、手を使い、根の張ったレベルで、データの蓄積へに向けてギアを切り替えた実際の手順に対する主張に気づく。日常のプロジェクトを定義付ける特 徴の1つには、ルールや制限、ただし書きや手法的な微妙な差異の拡散を通じて、それが長期間のマクロなレベルから、短期間のミクロなレベルへ配置換えする ことによって、目的を無効してしまうことがある。ほとんどのプロジェクトで仕様(通常、自分で課した法令)は、心理的で身体的に遂行される行為だけでな く、空間(場所、旅行計画)と時間(期間、頻度)の双方を育むのである。指示が1つのまとまりとして成文化されると、そのような仕様がしばしばアイロニカ ルになるのは、その正確さが、根拠のなさという強力な意味に従うからである。アイロニー、もしくは遊びの要素が提示するのは、パロディ的なシミュレーショ ンを含むプロジェクトであり、それは「科学的根拠」がある程度、暴かれることであり、そしてまたデータの収集はそのプロセスよりも重要ではないということ である。そうやって根拠のなさは科学的平等性を無効にし、注意を再び喚起しなおす。

ある特徴的な近視がプロジェクトにはある。準備された手順にしたがい連続する行為の繰り返しがしばしばその中心にあり、それは持続的な語りという目的論を 無効化する効果の1つでもある。繰り返しは前向きな側面であり、なぜならそれによって細かな変化に注意を向けられるからである。このことはプロジェクトと プロセスに関連する知恵とを結びつける――ペレックのいうところの「創発」のように。繰り返しは、慣習的な活動を麻痺させ、異なる種類の注意を育む。その 一時性は、存在の特定の次元に至る斬新な「転換」の地点であり、決まりきったことや、習慣によって当初は隠されていることに対して反応する、新しい注意の 様相なのである。プロジェクトは、しばしば、すでにそこにあるものの、隠されているわけではなく、その表面に横たわっているものの可視化をうまくやること ができる。注意を目標(ゴール)から、反復する、あらかじめ定められたプログラムの実行へとそらすことによって、プロジェクトは独自の中間的な時空区域を 創造する。プロジェクトとはフレームであり、しかしそのフレームを満たせば、プロジェクトを完成し、実現するといえることでもなく、常にそれは開かれてお り決着のつかない状態にあるのである。しかし、そのフレームワークのなかで、移行、本質的には注意の移行が発生する。われわれはプロジェクトによって、慣 れ親しんでいたかのように見えるものに近づき、より十分に認識するようになる。この意味で、プロジェクトのただ中で、われわれが見ることができるのは、日 常を考える上で中心となる、疎外と盗用の境界面なのである。

* Stephen Johnstone, The Everyday (Whitechapel: Documents of Contemporary Art) よ り抜粋

2011_02_10 Translated By Masashi Kido

著者プロフィール


マイケル・シェリングハム
|オックスフォード大学教授。

訳者プロフィール

Masashi Kido
Editor in Architetcture, Design, and art. Born in Niigata,1978.BA in Foreign Studies at Sophia University, Tokyo. He is author and editor of publication including Dutch Design: its conceptual way of making and thinking, Vormegiving - When a concept becomes forms. Co-Founder of Whatever Press.  www.whateverpress.com

木戸昌史:編集者・翻訳家. 1978年新潟県生まれ. 上 智大学外語学部英語学科卒業. 建築誌編集者として出版社勤務を経て2010年よりWhatever Press 主宰. 以降「PUBLISHING / PUBLICATION」(出版≒公化・公共の物)の再解釈とスタディを実践. また各メディウムが固有にもつ制作言語、その多元的性、コンセプチュアルな手法に関 心を寄せる.主著に『オランダのデザイン:跳躍 するコンセプチュアルな思考と手法』.


訳者考察

(予定)